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鶴見 五郎(つるみ ごろう、1948年11月23日 - )は、日本の男性元プロレスラー、元スポーツジム経営者。東海大学理学部卒業〔プロレスで活躍した鶴見五郎さん 日刊ゲンダイ 2013年4月8日付〕。神奈川県横浜市出身。本名は田中 隆雄。身長181cm、体重135kg。 == 来歴 == 東海大学理学部物理学科に入学。勉学と同時にレスリングに打ち込んでいたが、同大学にレスリング部がなく(2014年現在もない)、場所を転々としながら独自に練習していた。1971年6月、サンダー杉山の知り合いのつてで国際プロレスに入門。同年7月12日、北海道・札幌中島スポーツセンターでの大磯武戦にてデビューする。 その後1973年3月に八木宏(のちの剛竜馬)とともに海外武者修行のためヨーロッパに渡り、主に西ドイツにて活動するが、この時期、イギリスに渡り『蛇の穴』と呼ばれたビリー・ライレージムにてランカシャーレスリングを学ぶ。その後ヨーロッパからメキシコに転戦。このメキシコ遠征の際NWA世界ライトヘビー級王座をドクトル・ワグナーより奪取するが、試合後の計量でウエイトオーバーが判明し、タイトルを剥奪される。「そもそも最初から王座に挑戦していない」との説もあるが真偽は不明。大半の日本人レスラーがメキシコ遠征にあっては食事が合わず体重を落としていた傾向があるなか、鶴見は増量して帰ってきたという逸話も残している。 1975年に帰国し、中堅レスラーとして活動するが、1979年10月3日の青森県・黒石市大会で会場入りした際、自分のカードが組まれていなかったことに激怒し、国際プロレス社長の吉原功に抗議。それを止めようとした稲妻二郎と殴り合い、その結果選手会を除名される。鶴見はこれに腹を立て、吉原を暴行〔「忘れじの国際プロレス」P111 ベースボール・マガジン社 2014年。〕。これがきっかけで稲妻二郎と抗争を展開し、それまで着用していた青いレスリング・ギアを、胸に髑髏のマークを付けた黒いコスチュームに変えてヒールに転向。1980年1月4日に引退していた大位山勝三をパートナーに、ミスター珍をマネージャーに迎えて『独立愚連隊』を結成〔。日本人による初のヒール軍団の一員として活躍した。しかしそれら一連の出来事は、国際プロレスが経営難となり、外国人レスラーに支払うギャラや旅費の工面に悩む吉原社長が自ら考え出したアングルであったと、後に鶴見自身が語っている(日本人自らがヒールとなり、外国人側の役どころを代行すれば経費が抑えられると考えていた)〔『Gスピリッツ Vol.17』P74(2010年、辰巳出版、ISBN 4777808297)〕。 国際プロレス解散の半年前となる1981年3月19日の和歌山県・御坊市大会をもって大位山が再度引退したため『独立愚連隊』は解散。最終興行となった同年8月9日の北海道・羅臼町大会では、テリー・ギッブスを相手にメインイベントの金網デスマッチに登場、国際プロレス最後の試合を務めた。その後、ドイツのCWAやカルガリーのスタンピード・レスリングなど海外転戦を経て、フリーランスとして全日本プロレスに登場。当初は外国人サイドにつき、タイガー・ジェット・シンや上田馬之助との共闘や、全日に入団したマイティ井上や阿修羅・原との抗争を行う。 1983年3月1日の秋田市立体育館大会で、上田と天龍源一郎によるランバージャック・デスマッチに上田のセコンドとして参加した際、試合中の上田に凶器を渡したことから、後日PWFから6ヶ月間の(全日本マット)出場停止処分を受けている。同じく1983年にはザ・モンゴリアンと、1984年には来日中止となったバズ・ソイヤーの代打としてワンマン・ギャングと組み、世界最強タッグ決定リーグ戦に参加する。1984年のリーグ戦の最終日には、ラッシャー木村・剛竜馬・アポロ菅原と共に『国際血盟軍』を結成するが、全日本プロレスにおける日本人選手が飽和状態となり、1986年3月をもって初期メンバーである剛・菅原、1985年6月に加入した高杉正彦の3人が整理解雇されたことにより、同軍団は事実上解散。その翌年、全日のアジアタッグ争奪リーグ戦に剛とのコンビで参戦するも、三つ巴の最下位(ピンフォールを取られたのはすべて剛)に終わる。以後、同団体内で中途半端なポジションに甘んじることとなるが、地方興行のメインで行われる6人タッグにたびたび起用され、地味ながらも役目をこなす。 その後、ジャイアント馬場とラッシャー木村のファミリー軍団入りを直訴し、認められそうになった矢先の1990年にSWSへ移籍する。なお、引き抜かれたのではなく、自ら将軍KYワカマツに連絡し入団したという。 1990年9月に行われたSWSプレ旗揚げ戦にてジョージ高野と対戦し、裏拳の連発でジョージを追い込み、負けたものの高い評価を得るが、ほどなくSWSは崩壊、当時所属していた『道場・檄』とジョージ率いる『パライストラ』のメンバーと共にNOWに参加するが、NOWもほどなく崩壊。その後、IWA格闘志塾を旗揚げし、インディー団体の統括組織であるレスリング・ユニオンに加盟する。1994年には一時期ではあるがFMWに参戦、ターザン後藤と抗争を繰り広げた。またPWCでは「宇宙パワー」としても活躍した。 レスリング・ユニオンが活動を停止したのに伴い、団体名を国際プロレスプロモーションと変え、地元である鶴見区、茅ヶ崎市を中心に、トレーニングジムの経営と平行しつつ、小規模ながら地道な活動を続けていたが、2006年7月、引退を表明。 2009年8月23日には、ダークマッチながらも高木三四郎との師弟タッグでDDTプロレスリングの両国国技館大会「両国ピーターパン 〜大人になんてなれないよ〜」に出場予定だった。しかし、鶴見が大会の開催日を間違えていたため、遅刻。1年半ぶりの試合機会であったが欠場となってしまった(鶴見の代役は、小笠原和彦が務めた)。その後会場には到着し、第5試合(高木三四郎対ザ・グレート・サスケ戦)の途中、リング外でマミーと乱闘をしつつの乱入という形で登場。また同大会エンドロール映像にも姿を見せていた。 2009年9月にはGENTAROの強い希望も有り、VKF KING of WRESTLE NANIWAのタイトルに挑戦。国際プロレスの売店を襲うというGENTAROの頭脳プレイによってリングアウト負けを喫している。 2010年7月25日には、DDTプロレスリングの両国国技館大会に前年の轍を踏むことなく予定通り会場入り。しかし、出場試合の入場直前にトイレにこもっておりその間に試合は開始。鶴見はトイレからリングに向かうが、ロープをまたいでリングインした瞬間、タッグパートナーである松永智充がハチミツ二郎のアンクルホールドにギブアップ。結局、鶴見は一切試合を行わないまま敗退となった。 2010年9月5日、西調布格闘技アリーナにおける頑固プロレスでの対大久保一樹戦、およびその流れで6人タッグマッチとなった鶴見&大久保一樹&BENTEN対デモニオ・ウノ&ザ・スカルパー&ザ・ギザー戦。大久保とのシングル戦では足の負傷で満足な動きができないながらも裏拳やランカシャーレスリング流の足関節技、そして大技ゴロースープレックスを繰り出すなど健在ぶりを披露。6人タッグマッチでも怪奇派に裏拳を叩き込み、大久保の勝利をアシストした。 そのキャリアのほとんどを素顔のヒール・鶴見五郎として歩んできたがユニオン、マッスルなどのリングでプロデュースされ『メカゴロー』、『ツルティモドラゴン』といったキャラクターへの変身を見せたこともある。 2013年8月22日、新宿FACEにてDDT・FREEDOMS全面協力の下で現役引退試合を行った〔昭和の悪役・鶴見五郎引退/国際プロレス 日刊スポーツ 2013年8月22日閲覧〕。なお、引退試合の後のマイクで長男をプロレスラーとしてデビューさせると言った。 2014年現在、うっ滞性潰瘍を患い神奈川県内の病院に入院中。FREEDOMS、DDT、佐野魂が協力し合い、鶴見五郎エイドTシャツを販売し、その売上は鶴見の入院費、治療費にあてる協力をしている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鶴見五郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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